1491年、延徳3年、久慈郡(岩手県久慈市)の領主・南部光信(大浦光信)が、種里城に入りました。

三戸南部氏が安藤氏(安東氏)との抗争地帯であった津軽西海岸の掌握をはかるため、一族の光信を種里に派遣したとされています。

光信は、1502年、文亀2年に、津軽平野内陸部の岩木山麓に大浦城を築き、子の盛信の居城としました。



光信自身は大浦氏の初代として種里城にとどまり、1526年、大永6年に死去。種里城内に埋葬されました(光信公御廟所)。

その後は大浦城が代々大浦氏の居城となり、種里城は支城として江戸時代初めまで使われました。

大浦光信公



1590(天正18)年、大浦為信(後の津軽為信)が津軽地方の統一を成し遂げ、豊臣秀吉から津軽3郡の領有を認められました。

4万5千石の領地を得た為信は1594(文禄3)年4月に大浦城から堀越城に移り、藩の基礎作りました。

石川城(いしかわじょう)は、青森県弘前市に築かれていた日本の城。

別名、大仏ヶ鼻城。周辺の館とあわせて石川十三楯(大仏ヶ鼻城、岡館、猿楽館、月館、坊館、八幡館、寺館、高田館、茂兵衛殿館、寺山館、孫兵衛館、小山館、新館)と呼ばれ、この13の城館の総称として石川城といわれました。

石川城は、津軽の曽我宗家である平賀の曽我道性により建武元年(1334年)に築城されたと伝わる。

曽我氏はその後南部氏に制圧され、天文2年(1533年)石川高信が石川城を居城としていた。

だが元亀2年(1571年)5月5日未明、大浦為信(後の津軽為信)の急襲を受けて落城、石川高信は自害した。

その後石川城は津軽氏の所有となり、津軽家臣である板垣将兼が守りました。



和徳城(わとくじょう)は、弘和年間(1381年〜1384年)、藤崎城主安東氏の庶流安倍氏が築城したといわれていいます。

南部氏が攻めてきた文安2年(1445年)、清原氏の流れを汲むとも言われる配下、小山内氏の内通によって城は落城。

以後、小山内氏は南部氏に従い和徳城の城主となった。

天文12年(1543年)、大浦政信が和徳城主小山内永春と戦って討死にしている。

しかし、元亀2年(1571年)5月5日(旧暦)、近隣の石川城が大浦為信の奇襲よって落とされた。

すると、それに勢いづいた大浦勢、小笠原信清、為信本隊で三方から攻め寄せた。

小山内讃岐守は、十二矢又五郎に討たれ、和徳城は落城した。

また、讃岐守の父永春も援軍として駆けつけたが、小笠原信清に討たれた。その後、和徳城は為信によって配下の森岡信元に与えられた。


堀越城(ほりこしじょう)は、青森県弘前市堀越字川合・柏田にかつてあった日本の城。国の史跡に指定されています。

1336年(建武3年)、北朝方の曾我太郎貞光により築城される。

1571年(元亀2年)、大浦為信(津軽為信)はこの城に兵を集め、石川城を急襲します。

田舎館城(いなかだてじょう)は、浅瀬石城主・千徳正久の二男である千徳大三郎貞武(政実)が築いたとされる城です。

5代・千徳掃部政武が城主の1585年(天正13年)、大浦為信によって攻められ落城すると、千徳氏は滅亡しました。

弘前城と岩木山



1603(慶長8)年、津軽為信は、沼田面松斎の兵法、立地、陰陽五行の思想などから、藩政の拠点となる築城の地を決めさせました。

それによって選ばれたのが四方を4神が守護する四神相応の地である高岡、現在の弘前です。

沼田面松斎(沼田祐光)は、津軽為信の軍師として活躍したといわれています。

陰陽道・易学・天文学に通じており、これらを駆使した伝承(弘前城築城時の城地選定の際、土地の吉凶を占うなど)が伝わっています。

中央政界とのパイプ役を担っていたともいわれています。青森県弘前市の誓願寺に、沼田面松斎以下、弘前藩士沼田氏代々の墓所が現存しています。



津軽藩(つがるはん)・3代目藩主は津軽信義(のぶよし)です。

津軽信義は、津軽信枚(のぶひら)と石田三成の三女、辰姫との間に生まれた三成の孫です。

そして、津軽信枚の正室は徳川家康の養女満天姫(まてひめ)です。

津軽信英は津軽信枚(のぶひら)の次男で、後に津軽

藩から黒石領5000石を分知され領主となり、信英の家系は黒石津軽氏と呼ばれています。


津軽寧親(つがるやすちか・1765~1833)は江戸時代後期の津軽藩9代藩主です。

分家の黒石津軽家に生まれ、黒石領4,000石を相続していましたが、弘津軽藩8代信明の急死に伴い、寛政3年(1791)より34年間にわたり弘前藩主をつとめました。

ロシアの南下に対する警備のため兵を蝦夷(北海道)に派遣した功績から、津軽藩をそれまでの倍以上となる10万石に家格を上昇させました。

津軽藩の年表

1550年(天文19年) 津軽藩始祖為信誕生。

1567年(永禄10年) 津軽藩始祖為信、大浦為則の婿養子として阿保良と結婚。大浦城主・大浦為則 没。

1571年(元亀2年) 津軽統一の活動開始。

1571年(元亀2年) 石川城を制圧。

1571年(元亀2年) 堀越城を制圧。

1578年(天正6年) 浪岡城を制圧。

1585年(天正13年)田舎館城を制圧。

1588年(天正16年) 飯詰城を制圧。

1590年(天正18年) 津軽統一。

1592年(文禄1年) 4万5千石となる。

1593年(文禄2年) 近衛家を訪問し、杏葉牡丹の紋章を許される。

1594(文禄3年) 大浦城から堀越城に移り、藩の基礎作りました。

1600年(慶長5年) 関ヶ原の合戦に参加。徳川軍につき領地2千石増加。

1603年(慶長8年) 高岡に町割りを実施。

1607年(慶長12年) 為信、長男信建没。3男信枚が家督相続。

1610年(慶長15年) 2代藩主津軽信枚にて、高岡城築城、完成。



1611年(慶長16年) 津軽信枚、天海大僧正に帰依、天台宗に改宗。後に権大僧郡寛海となる。家康の養女、満天姫を正室に迎える。

1627年(寛永4年) 落雷により天守閣消失。

1628年(寛永5年) 高岡から弘前へと改名。

1631年(寛永8年) 津軽信枚没。信枚の長男信義が家督相続。

1656年(明暦2年) 津軽信政、家督相続。

1694年(元禄7年) 津軽藩、実総石高29万余石、村数825。

1710年(宝永7年) 津軽信政没。津軽信寿家督相続。

1731年(享保16年) 「津軽一統志」完成。津軽一統志(つがるいっとうし)は、弘前藩(津軽藩)が編纂した官撰史書。1731年(享保16年)刊行、全10巻

1792年(寛政4年)地震により千畳敷海岸隆起し、誕生しました。その後、千畳の畳を敷き酒宴を催したといわれています。

1805年(文化2年) 黒石藩誕生。

1867年(慶応3年) 藩主に上洛の朝命。家老・杉山を名代に上洛。

1868年(明治1年) 藩主、津軽承昭が奥羽触頭を命ぜられる。

1869年(明治2年) 版籍奉還。

1871年(明治4年) 廃藩置県で弘前、七戸、八戸、斗南、黒石の5県を置く。弘前県を青森県と改め、県庁を青森に移す。



歴代津軽藩主

初代 津軽為信(つがるためのぶ)

2代  津軽信枚(のぶひら)

3代  津軽信義(のぶよし)

4代  津軽信政(のぶまさ)

5代  津軽信寿(のぶひさ)

6代  津軽信著(のぶあき)

7代  津軽信寧(のぶやす)

8代  津軽信明(のぶあきら/のぶはる)

9代  津軽寧親(やすちか)

10代 津軽信順(のぶゆき)

11代 津軽順承(ゆきつぐ)

津軽順承は、黒石藩の2代藩主でした。

のちに津軽藩の11代藩主となりました。

官位は従四位下・左近将監、大隅守でした。

三河国吉田藩主松平信明の五男として生まれ、津軽親足の養子となりました。

文政8年(1825年)に黒石藩主となり、天保10年(1839年)に津軽藩主となりました。

財政の緊縮政策や新田開発により、藩財政を再建しました。

また、洋式兵学を取り入れたり、江戸で佐藤一斎を登用したりしました。

安政6年(1859年)に婿養子の承昭に家督を譲って隠居しました。

その後は俳句の世界に入り、梅翁という俳号を名乗りました。

慶応元年(1865年)に死去しました。

享年66歳でした。

12代 津軽承昭(つぐあきら)

津軽承昭は、津軽藩の12代(最後)の藩主です。

熊本藩主細川斉護の四男として生まれ、細川護明と名乗っていました。

安政4年(1857年)に弘前藩主津軽順承の養子となり、津軽承烈、のちに承昭と改名しました。

安政6年(1859年)に家督を継ぎ、従四位下・越中守に叙任されました。

幕末の動乱期には新政府に与し、戊辰戦争や箱館戦争で功績を挙げました。

明治2年(1869年)に版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)に廃藩置県で免官されました。

明治17年(1884年)に伯爵となり、第十五国立銀行の取締役などを務めました。

大正5年(1916年)に77歳で死去しました。

養子の英麿が跡を継ぎました。

曾孫に正仁親王妃華子様がいます。




津軽弁、けっぱる

けっぱるとは「がんばる」という意味の津軽弁です。あなたはけっぱっていますか?




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花が咲くまで7年前後の期間が必要とされています。

カタクリ(片栗)は、ユリ科カタクリ属に属する多年草。

カタクリの花には、「初恋」「寂しさに耐える」という2つの花言葉があります。

カタクリの花は、種が根付いてから、花が咲くまで7年前後の期間が必要とされています。

また、多年草ではあるものの、花を咲かせられるのは7回程度とも言われています。

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巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん) 言葉巧みで、表情を取り繕っているものに、誠実な人間はほとんどいないということ。

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